「2次元」世界に入り込む
文・共同通信編集委員  岩川洋成

 きざな話ではあるが、パリのオランジェリー美術館でモネの『睡蓮』の一つを見たときのことである。せっかく本場で本物を見るのだからしっかり元を取ろうと、というあたりぜんぜんきざじゃないが、時間をかけて近づいたり離れたり、ためつすがめつしているうちに突然、その絵がうわっと変容したのに驚いた。
 ある距離に立ったとき、絵が遠近感を失って、睡蓮や葉や水面の光や日差しが輪郭を失い、全体がただぼやっとしたただの模様のように見えたのである。われわれは「睡蓮」とタイトルがあって「睡蓮」を見ているけれども、先入観なしに生まれて初めて見た場合、一体何を見るだろうと考えた。そして画家は、実はこの模様、網膜に映る意味を失った映像をキャンバスに再現したかったのではないだろうか、と。
 GOTO AKIの写真を初めて見たとき、実はそのことを思い出した。
 例えば「草だまり」というのだろうか。荒涼とした地面の上にぽつぽつと規則的枯れ草がかたまっているところを撮った。1枚は、瞬時にして見る者にその意味を失わせる。渋い小紋柄の着物をなでているような。
 写真集「terra」の作品は、固有の場所を撮ったいわゆる「風景写真」なのだが、各ページには地名の表記はない。スギ花粉の拡大写真のようなそれは、どうやら水紋に反射する陽光らしい。男体動物の卵か何かがひしめき合っているのは、よく見ると川底の白い石だろうか。どうみても火星か木星の表面だろうというものが、巻末のクレジットを見てみると富士山の火口だという。風景が遠近感を失って2次元に転移されたものを見ることが、こんなにも心地よいことだとは。まさに目が洗われる体験だ。
 「私は対象を見るときに、目にカメラとレンズを備えたように、立体を平面に翻訳して見ています」。驚くべきことを写真家は話す。「シャッタースピードや露出補正も目でして、写真にはこう映る、と」。そうして捉えようとするのは、既視感のある風景ではなく、それを構成する光、風、色、音、におい、そして時間…。
 「つまりそのものではなく、その”要素”を自分は撮りたいのだとわかったのは、まだ数年前のことです」。それは写真に映らない。だが映らないものを撮らなければ、天文学的な数の画像が流出する現代において、写真家のいる意味は無い。
 撮影場所は、富士山、恐山、阿蘇山など火山が多い。いくつものプレートが落ち込んでいる日本列島は、地球の表層のうちでも最も新陳代謝が激しい場所。宇宙的な時間の流れにおいて、異常に変化の早いものを相手にしています。
 「日本に生まれ育ったのでたまたま日本を舞台にしていますが、学生の時に世界を一周した経験から地球のスケール感が体の中にある。俯瞰の目線で日本を見て、そうですね、私はそこでいわば『地球のポートレート』を撮っていると言える」
 地球のポートレートー。なんとすてきな言葉だろう。時にうんとカメラを引き、時に接写し、俯瞰し、あおり、まさぐるようにその表面を愛でる。そう、その写真には何より、地球への愛が感じられる。きざな言い方だが。

2019.3.26